ゆうぐれ時の桜並木を通る時
「ゆうぐれ時の桜並木を通る時 」
ゆうがた。
仕事に向かう途中
桜並木を通る時、
車の中でなつかしい曲がかかった。
ついついまたある人のことを思い出してしまった。
街灯に照らされ始めた夕暮れ時の桜並木は、
ことのほか美しく、
おりからの風に吹かれて舞い散る花びらは、
あまりにも儚く、
その景色を目にしながら、
遠い遠い遠い昔
ある人のことが大好きだった頃を
思い出してしまった。
でも大丈夫。
今では、もう
思い出しても
胸のあたりが
ほんの少し
チクっとするだけ。
かつてのように心が騒ぎ出したりはしない。
桜並木を通り過ぎさえすれば
一瞬脳裏をよぎっただけの
単なる回想にすぎなかったのだと
気がつくから、そして何事もなかったように、普段の日常の世界に戻ってゆくから。
「ボーイ」
「な。行こうよ、なにもせえへんから、ただ、いっしょに寝てくれるだけでええねん」
すがりつくような目で、じっと私を見つめて、彼は言った。
心細そうだった。だからといって、やはりついてゆくわけには行かなかった。
彼は、無理強いはしなかった。
ポケットからペンを出して、紙のコースターの後ろに、なにやらサラサラと書いて、
「これ俺とこの電話番号、よかったら電話してきて」
そう言い、私にそれを渡した。
そこには、彼の名前と電話番号が記されていた。
走り書きにしては、恐ろしく整った美しい文字だった。